昭和五十七年二月十日 朝の御理解
x 御理解第五十七節 「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
信心を頂いて教えを受けます、そこから物の見方も考え方もいわゆる生活態度というか、生活姿勢というものが段々変ってくる。私はあのう、信心でいう改まりという事はそういう事だと思うです。昨日は研修のとき改まり、という事について、まあいろいろ検討させて頂いたんですけど。本当にこういう事では、と思う事を改めていくと、まあ各々の喪っておるよくないもの、又は悪い癖のようなものでも改めていく、という。勿論それも確かに改める事ですけれども。本当な事がわかりますから段々、ね。
そしてそれを実験実証していってまいりますと、確かにそれがこういう物のみかた考え方、あり方が本当だ、という事がわかってまいりますから自然、いわゆる生活態度生活の姿勢というものが変ってくるわけです。それにはここに頂きますように、いわゆる「神仏に身任せ」といったような言葉がある。教祖のみ教えの中にございますが、この、神様にもう身も心も任せる、という生き方こそが神を杖につけば、という事になるのだと思うんですけどね。神を杖につけば楽じゃ、とこうおっしゃる。
ところが私共の場合なかなか只、困った時だけ神様にお願いをする、という事はお願いをしますけれども、身任せになってない。いうならば神を杖についてない。あの人を頼りにしたり、ね、又は、物を頼りにしたりお金を、に、頼ったりするわけですね。そういうところが段々神を杖につけば、という信心がすっきりと出来てくるようになる時に、ね、神を杖につけば楽じゃ、という楽なおかげが受けられるのです。今の教主様のお詠の中に「たよりなきものをたよりにするゆえの このたよりなき心なるかも」とお詠がありますよね。
頼りなきものを頼りにするゆえのこの頼りなき心なるかも。不安とか心配というものは、ね。頼りないものを頼っておる。だから不安。家にはお金があるから、とか家には息子がしっかりしておってくれるとか。いゃあ私はもう自分の腕だけには人には負けん、とか、自分の腕を頼りにしたり、又は物やら金やらを頼りにしておる。いかにも頼りになるかのようであって、頼りにならないものですからやはり不安なんです。ね。形あるもの等が頼りになる筈絶対にありません。
本当に神を杖につかなければそれは生まれません。そこで、なら心の中に不安が生じ焦燥があり、結局神様をまあだこの程度にしか知恵についていないんだな、すがっていないんだな。ただお願いしますお願いしますと口だけは言うとる。けども、身も心もお任せしてすがっおるのではないなあ、という事を、ま、わからなければならん、と思うですよ、ね。それでやっぱり日々のささいな事柄の中からでも、やはりこれを本当に神様におすがりをする実験をしてまいりませんと実証が生まれてこない。
その実証の積み重ねがいよいよ神を杖につく、という事になり楽じゃ、というおかげになってくるんだと思うんです。数日前に私共の末永錦也という若い先生がおりますが、どっか自動車を使ってどこにかまあお使いなんか行ったんでしょうか、そして横から車が…、衝突されてるわけです。もう、勿論、衝突した方が悪いわけなんです。ところが彼がお届け致しますのに、ね。向うがこうやって衝突してきたんだけども、私の車がそこになかったら向うも衝突しなかったんだからやっぱり両方が悪いとですから、と言うんですよ。私は、ね、そういう本当な事がわかってくる、という事がもう、いうならば、生活態度というものが変ってくるんです。ね。
一方的にあちらが悪いんだから、あちらから修繕代を取らなければ、これがまあ普通一般ですね。けど、私の車がそこになかったら、いうなら衝突もしなかったんだから、ね。やっぱり相方が悪いんだ、とこういうわけです。私が一分間ならおそくそこを通っておったら相手の方は私の車にぶつからなくてすんだのですから、とまあいう考え方なのです。どちらが本当だと思いますか。そりゃあ横から出て来てぶつけた方が悪か、とだけしか言わんでしょうねえ。けども本当はそうじゃないです。
r これは私が北京から帰った当初の事でしたけども、まあだこんな車が多くない時でしたから、私は親木かから帰って、自分の家にちょっと寄、ちょっとこう腰掛けたのと、私の家の前が通りですかね。椛目の、今の若先生が四、五つ位の時だったでしょうかねえ~、帰った当初ですから、重荷用の自転車で乗って来た人がほんな私の目の前でこうやってあの、縦せに敷いて行ったです、こうやって。ほいでもうあちらもびっくりしてすぐ降りられて、まあ怪我ないか、という事でしょうけども、直ぐ隣に原口さんというお爺さんがおられましたが、もう自分もそれを見よってからつるつる出て来てそら、向うの重荷用の自転車をこうしっかり握っとんなさいますもん、ね。それはまあ逃げちゃならんという事でしょう。
ところが私がほんな目の前、私が見とったもんですから、その自転車乗った人に、どうもすみません、子供がちょろちょろしとってから、さあさあ早よ行って下さい、と言うて、その自転車をあの、行ってもらったんです。そしたら原口さんというお爺さんが腹かきなさいました。折角自分が捕まえとってやっとるとに、まあいうならお菓子箱のいっちょもろてやろ、と思うとっとに、というところじゃないでしょうかね。
けども私は、なら勝彦がそこにきょろきょろしとらなかったら、そういう事は起こらないのですから。どうぞ行って下さい、御迷惑かけました、すみませんでした。ち言うて、その自転車を私がこうやった。ね。だから、ま、原口さんとしてはその、折角自分が出て来てからその、自分も敷いたつを見てあるもんですからね。車をそのこうやってハンドルを握、後の方を握ってから、行って下さい、とこう言う、ね。
敷いた方こそ迷惑なもんであって、こちらがそこにおったから敷かれたのであるから向うが悪いのじゃない、こっちが悪いんだ、と。そういう、皆さんどう思うですか。私は今日はね、その、信心させて頂いて改まっていく、という事は、ね。本当の事がわかってくるから本当なものの見方考え方が出来るようになる、という事なんです。ね。そこから良いものが生まれてくる。その、錦也君の事故の場合も、昨日、だから栄四郎と二人で向うにお話に行ったそうですが、こちらがそういう気持なもんですから向うも大変、ま、穏やかに出られて話がこうこう言うふうになった、といったような事でございましたが、そういう結果はともかく、としてですね。私、生活態度が変る、という事はそういう事だ、と思うんです。ね。
福岡の初代のみ教えの芯と言われておる「馬鹿と阿呆で道を開け」とこう。例えばそういう今、私が申しますその事やらを、の事を今時の、ま、交通事故の問題を、そういう頂き方をしたらです。それこそ馬鹿みたいでしょうけれども、ところが不思議に、いうならば神を杖につけば楽じゃ、といったような信心は生まれてくる、のです。ね。信心のある者もない者も、いうなら親のある子とない子の違い、と言われるのに、おかげを受けるという事だけが親のある子とない子、の違い、であってはおかしい、です。ね。その考え方もです。ものの見方もです、ね。信心のある者とない者の違いがはっきり出て来なければいけないです。ね。
向うが悪いとやから向うから修繕料を全部取って取らなばからしか、と、いう考え方が普通ですけれども、ね。本当の事がわかったら、ね。私の方の子供がひょろひょろ出て行かなければそういう事故は起こっていないのだから。私の子供がそこになかったら相手の人も衝突をするような事もなかったのだから、という考え方。なかなかしかし難しいですよ、ね。本当な事がわかってくると本当な、いうならば姿勢が出けてこなきゃならんのですけど、わかっておるけれどなかなか出けませんけれど、ね。
そういうところを些細な事の中からでも一つ一つ実証してい、ていくうちに、です。いよいよ神を杖につけば楽じゃという、楽な信心とはこういう信心だ、という事がいうなら、金も物も人も頼りになるものではない。自分の心の中に不安がある、焦燥があるのは、頼りにもならないものを頼りにしておるからだ、と。その、自分の心の中からです、ね。いうならば全身全霊を神様に身任せ出けれる信心を目指さしてもらわんと、ね。神を杖につけば楽じゃ、といったような素晴らしい心の状態は開けてこないと思うですね。どうぞ